[ feel, ] - Keep your chin up, look up to the skies and see. - [img:1546253720660] そして、物語は終わった。 恐らく、一生分泣いただろう。 もう涙は出ない、どのような感情だったのかも、麻痺して忘れてしまった。 午前五時四十三分。 暗い部屋で秒針を噛み、明けない夜はないと、 閉め切ったカーテンの周りに光が増していく。 朝も早くから、テレビの中では賑やかなアナウンサーと、 冗談混じりのコメンテイターが画面を賑やかしていた。 シーツから出て、ベッドから地球に降り立つ私を、エアコンの冷たい風で冷やされた床が驚かす。 プレーヤーとテレビの電源を切り、その指でカーテンを開き、窓を開けると、 生温い風が頬を撫で、涙の通ったあとを乾かしていった。 大きく呼吸する、 ドクンと一度だけ心臓が脈打つ。 生きている。 洗面所に行くと、そこには真っ白な顔の黒髪の女が立っていた。 眉は整えられ、鼻筋は通っている。 しかし、深く黒い瞳には光がなく、まぶたは腫れ上がっている。 その女は、鎖骨の辺りまである髪をかきあげて、歯ブラシを手に取り歯を磨き始めた。 そうか、彼女は鏡に映った私だ。 部屋に戻ると、低いキャビネットの引き出しからキーケースを取り出し、テーブルの上へ置く。 クローゼットに掛けられた、いくつかの服の中に似つかわない、ライディングジャケットとレザーパンツ。 今日はスーツの代わりに、これらが私の身体の滑らかな表面を流れて、覆う。 いま、私はバイクに乗るための儀式を行なっている。 バイクに乗るという、強い意志と覚悟を、 ひとつひとつ確かめながら進めていく、儀式。 シューズボックスからライティングシューズを出して履き、 ヘルメットとキーと財布、モバイルフォンだけを持って、玄関のドアを開けた。 再び、生温い空気が頬を撫で、その何もかも包みこもうとする、やさしさが私は嫌い。 「あの映画のレンタル期限は、いつだっけ?」 誰に聞いたわけでもない、独り言だ。 午前六時十四分。 駐輪場の隅に置かれた物体のカバーを外すと、 鮮やかな青のバイクが現れた。 見下ろし、青のタンクを撫でる。 「ただいま。」 キーを差し込み、右に回すとメイン電源がオンとなり、 ニュートラルランプとエンジンオイルのローテンプ警告灯が点灯した。 ガソリンコックをオンにし、左手をハンドルバーに添え、左脚はステップに。 右足をたたんでシートを超えて、バイクに跨がる。 チョークレバーを引いて、数回スロットルを煽って、 キャブレターの中に入っているガソリンをニードルを使って上げる。 キックスターターを全身を使って蹴り落とし、 クランクを回して、混合気をシリンダーの中に招き入れられたら、 プラグにより点火、爆発、膨張するまで、 何度でも何度でもスターターを蹴り落とす。 ガッ!ガララララッ! 「くそっ!放ったらかしにしてた私が悪いって!謝るから、かかれエンジン!」 ドロッ…ドロロロロロ! タコメーターの針がピッ!と4500rpmあたりを刺し、 油温計の針がじわりじわりと回りはじめる。 シングルエンジン特有のライブ会場にでもいるような、 お腹に響く振動に腰をおろし、額に浮かんだ薄い汗の膜を拭った。 「ありがとう、機嫌をなおしてくれて。随分待たせたね。」 跳ね上がった回転数が落ちてきて、ドッドッドッ!とエンジンが落ち着きを取り戻したら、 チョークレバーを戻して、ヘルメットを被り、顎紐をDリングに迎え入れて締める。 ふぅ、とひと息、車体を起こし、跨ったまま左脚でスタンドを払った。 カタンっ! 左手で握ったクラッチレバー、左脚つま先でかき上げるシフトペダルは一速。 「さあ、行こうか。相棒。」 クラッチレバーをゆっくりリリースすると、クラッチプレートが噛み合い、 動力がミッションを回してドライブスプロケットへ、 刻まれた歯車がチェーンを引っ張り上げて、 ドリブンスプロケットに「ようこそ!」と動力を紹介した。 リアタイヤがアスファルトを蹴り、バイクが前へ進む。 午前六時二十九分。 道路に出るとスロットルを開いて加速する。 30km/h、40km/h…速度が上がるにつれ、 普通と呼ばれる日常が風となって、前から後ろへ流れ、過去になっていく。 未来は、進行方向に見える街灯、並木が5秒毎に教え、高鳴る鼓動と一緒に走る。 幹線道路に出ると通勤ラッシュで混雑した。 今日は平日だ、いつもなら私もバスの中でスーツで身を守り、 何から逃げるわけでもないのに息を殺している。 片側二車線の左の車線、第一車線という名前の彼の上を、ノロノロとゆっくりと進む車について行く。 少し、発進するのが遅れるだけで後ろからクラクションが鳴らされる。 なるほどな、私はドライバーに煙たがれる存在なんだな。 背負っている重みも、希望も、誰とも変わらないというのに、バイクというだけで、この扱いだ。 これじゃあ、まるで、普段の生活で感じている閉塞感にも似た、感覚と、なんら変わりはない。 午前七時〇四分。 示す赤は信号機。 停止線手前で止まり、ヘルメットのシールドを開けて、 蝉の鳴き声がする空気を吸いながら、 ぼうっと横断歩道の白のしましまを眺めていた。 あの時の歩行者信号は、確かに青で渡りきれると思っていた。 だけれども、大きな道路の横断歩道は、その途中で青が点滅し始める、 焦る鼓動、彼の急ぐ手が私を引っ張る。 しかし、私の手は、彼の力に着いていけずに振り解かれ、 私は道路の中央分離帯に取り残された。 彼が渡りきれたのかどうか、分からない。 ただ、ひとつ、 これは例え話で、 白いしましまの線の上、私は、暴力的に通り過ぎる車列の真ん中にうずくまり、 ただ、呆然と通り過ぎる車のタイヤばかりを見ていた。 私は、いまも、その横断歩道の途中だろう。 何度も信号は青に変わり、試された。 引き返せない恐怖と、前に進むしかない不安の間で、 今も一日分の精一杯をするだけで、途方にくれている。 プンッ! 後続車のクラクションに信号が青になったことを知り、慌てて発進する。 午前七時四十六分。 幹線道路を抜け、郊外を山の稜線が見え、 緑が多くなってくると自動車の流れも気持ちよく動き始めた。 片側一車線の、細く舗装が痛んだ県境に向かう道を進む。 「110号だったっけな?」 時速50km/h、陽は高くなりジリジリと焦がし始めた。 今日も暑くなりそうだ。 空冷エンジンの、このバイクで酷暑の中、渋滞にハマるのは体力的にも厳しい。 早めに渋滞を抜け出せてよかった。 バイクという乗り物は夏は暑いし、冬は寒い。 車には煙たがれ、駐輪場も少ないから気を使う。 さらに、荷物も、あまり積めない。 何よりケガや命の危険と隣り合わせ。 じゃあ、何故バイクなんだ? タンクを挟んだ両脚の下からキャブレターが空気を吸う音が聞こえる。 ラム圧ボックスに入っている、前に進むチカラを生み出す入り口。 何故バイクなんだろうねえ? そうだな、 うん。 ただ、幸せなんだ。 バイクに乗っていると、この世界を切り取った断片にいる感じがする。 私が幸せだと感じるのは、 彼のひとが愛した、その切り取られた世界を感じられるからだ。 視界の両側に流れる建物がまばらに、小ぢんまりとしていく。 空が、広くなっていく。 見上げた空に張られた電線が波打ち、分かれ、合流し、また、別れ。 くぐる、点滅信号。 やがて、道が右に左に蛇行し始めて、色が緑になる。 3600rpm辺りで巡航している彼に鞭を入れ、バタタッ!と短く加速した。 左手でクラッチレバーを握り、左脚で二回シフトペダルを蹴り上げ、 ブリッピング、 タコメーターの針が跳ね上がり、抱え込んだエンジンが喜び、はしゃぎ始める。 「いい子、いい子。」 二速ホールドのまま、ギュウゥゥと右手でフロントブレーキを握ったら、 荷重がフロントに移ってフロントフォークが沈む、 ゆるい右カーブにアプローチ、目線はカーブの先を見て、頭はカーブの中心見るように。 ブゥアアアアアン…!! エンジンブレーキでリアタイヤをアスファルトにしがみつかせたまま、大きく息を吸い込んだら、 お腹に空気を抱えるように猫背に、 お尻の曲線をシートに沿わせるように腰を後ろへと引く。 右手のフロントブレーキをリリースすると、 バイクがカーブの円の中心に吸い込まれるように、 速度を落としながら、円の外に投げだそうとする、 この世界の理に、フロントフォークとリアショックを沈め、 タイヤのたわみまで使って、向こう側に落ちないようにアスファルトにしがみつく。 「そう、そう。いい子、いい子。」 右脚でステップを踏み付け、 左脚はダンスを踊っているときに、相手の腰に絡めるように、タンクを内側へと誘う。 スロットルをじわりと少し開け、 スイングアームが少し沈んだら「まだだよ。」と、言い聞かせて、 円の中心を過ぎた辺りでスロットルをゆっくりと捻りあげていく。 リアタイヤが、バイクの加速に潰れ、アスファルトの上を、ほんの少し、外へ滑りながら前へと進んでいく。 フロントタイヤが円の中心に向かい始めたところで、さらにスロットルを開けて、旋回力を引き出してやる。 バタラララララッ!! エンジンが心地よい振動を駆動力としてアスファルトに伝えたら、 ブーメランのような弧を描いて、カーブを回る。 バタンッ!バラッ!ブゥウウウウウ! 50メートル直線を加速して、次は左カーブだ。 「すぅー。」息を吸う。 バイクは、真っ直ぐ走るにしても様々な操作がいる。 アクセル、クラッチ、シフトチェンジ…。 さらに、無意識に体や頭を動かして、バランスを取っている。 クネクネと曲がりくねった峠道となると、その操作は倍以上だ。 それを、音楽を奏でるように、 ダンスを踊るように、 前に後ろに、右に左に、 減速し、加速して、 道の上をリズムで刻む、 オーケストラだ。 風が、空気が夏の新鮮な空気に変わっていく。 右に左に、バイクと踊って、アスファルトに刻んでいく軌跡。 慌てて、調子から外れないよう、リズムに乗って踊り、奏でる、オーケストラと舞踏会。 「私とダンスはいかが?」 「喜んで。」 午前九時〇九分。 缶コーヒーを口にした、ほろ苦い香りがコロコロと舌の上を転がる。 このバス停の横にある自動販売機が、私たちが、あの頃よく過ごしたカフェだった。 甲高い音を立てて、三台のバイクがやってくる、 私のバイクに気がついて、彼らが私に手を振る。 別に仲間ってわけじゃない、バイク乗りの、一種の馴れ合い、か。 三台のバイクはツーリングだろうか? 安全に、と呟いて、手を振り返した。 「さて…。」 伸びをして、青く宇宙まで届きそうな空を突き抜ける視線で凝視。 今日も暑くなるだろう、夕立もあるかもしれないな。 ゴミ箱に缶を捨て、ヘルメットを被り、タンクに手を置く。 「ねえ?」 「ねえ、連れてってよ、」 彼のいる空に、近い、 あの山の上まで。 そして、物語は始まった。 おわり。